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私は《女どき》でできている。きっと。 [stress]

本棚の整理をしていたら、ふと目があった。
あれ.....こんな本、私持っていたかしら?
表紙を見てもまったく記憶が蘇らないことに、さらに興味を煽られ、
雨足が強くなった、月曜日の夕方から読み始めた。
半ばくらいまで読んで、ふと本を閉じた時に背表紙の紹介文が目に入った。

「何事も成功する時を男時〜おどき〜、巡り合わせの悪いときを女時〜めどき〜という」

ああっ。
恥ずかしながら、いや、ご多分にもれず、おとこどき、おんなどきと読んでいた。
さらに、妙齢の男女のストーリーの短編集...と勝手に決め付けていた。

あまりにも気になって、ググってみたら、その典拠はどうやら、
なんと600年も昔、世阿弥の「風姿花伝」らしいのだ。
世阿弥「花伝書」「風姿花伝」より

 時の間にも、男時・女時と てあるべし。いかにするとも、能によき時あれば、かならず悪きこと、またあるべし。これ力なき因果なり。(中略)この男時・女時とは、一切の勝負に、さだめて一方色めきて、よき時分になることあり。これを男時と心得べし。勝負の物数久しければ、両方へ移り変りうつりかはりすべし。

 

 時の間にも男時と女時というのがあるに違いない。能を演じていてうまくいく時があれば、うまくいかない時もまた必ずある。これはやむを得ない因果というものである。(中略)では、この男時と女時というのは何か。それは一切の勝負において、一方に勢いが傾き、時に恵まれることである。これが男時であると心得よ。場数が増え、長く(能を)行えば、男時と女時が必ずや相互に移り変わるはずである。

男がいい時でおんなが悪時ってなによ!と口を尖らせたくもなるが、
でもこれはきっとただ陰(女性)陽(男性)を言いたかっただけのこと。
太陽時と月時でも、呼気時と吸気時でもよかったに違いない。
能を芸として確立したと言われる世阿弥が、
舞台の出来不出来について語ったのが風姿花伝。(かなりざっくりと説明)
去年うまく演じられたからといって今年もうまくいくわけではない。
それどころか3日のうち、いや1日のうちにも男時と女時があって、それは時の運で人の力ではどうしようもない。
だから続けるしかない....とかなんとか.....

時分をもおそるべし。去年盛りあらば、今年の花はなかることを知るべし。時の間にも、男時(おどき)、女時(めどき)とてあるべし。いかにするとも、能によき時あれば。必ず悪きこと、またあるべし。これ力なき因果なり

OMG! なんと風姿花伝はDOPEなんでしょう。
読みたい読みたい、先が知りたいっ。アマゾンでポチっとして...なんてやっていたら、もう夜中。
今日、ずっとこんなことしてたーー。これぞ、まさに非生産的な女時???!!!

いや、あえて、私は思う。
こんな女どきに、私という人間は作られているんだって。
向田邦子の言葉や世阿弥の言葉が私のからだの一部となって、私は動かされていく。
言葉、カラダ、習慣.....それらがすべて私の現実。
だから.....仕込みの時間もとっても大切。
自分の本当のペースを知ることができる時間。


なすすべがない時は、人生の流れをキャッチして。
流されるまま...導かれるまま....すべてに身を任せて。
唯一しがみつく、いやしっかり握るのは自分の信念かな。
自分を信じて。

ここでまた陰陽道を持ち出すならば、
文字の並びからいっても、隠がはじまり。陽はそのつぎw
まったく新しいはじまりは隠からだ。
隠が女性、感性豊かに新たなるものを作り出す。
陽は男性、いまあるものを応用発展させる能力に長けている。
隠(女性)がなくちゃ、はじまらないのよ。


だから、私は女どきでできている。


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古代中国では、自然界のあらゆるものを陰と陽にわけた。たとえば太陽は陽で月は隠、奇数が陽で偶数が隠、表が陽で裏が隠という具合に。

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